最近、AIと新規事業の壁打ちをしていて気づいたことがある。
AIは優秀だ。驚くほど優秀だ。
だが同時に、AIは「事業計画書の亡霊」でもある。
例えば「新しい写真共有サービスを考えたい」と相談する。
最初の数往復は面白い。
既存SNSの問題点が整理され、ユーザー体験の仮説が語られ、いかにもイノベーションが生まれそうな空気が漂う。
ところが会話を続けていると、不思議な力が働き始める。
いつの間にか話題は、
へと収束していく。
気づけば、最初に抱いていた違和感や狂気は綺麗に除去されている。
残るのは、どこかで見たことのあるサービスだ。
AIは優秀なコンサルタントだが、優秀であるがゆえに平均へと引っ張る。
これはAIの欠点ではない。
むしろ学習データに忠実な結果だ。
世の中で成功したサービスは、ほとんどが説明可能で、計測可能で、再現可能だった。
だからAIは本能的にそうした方向へ向かう。
だが、その過程で失われるものがある。
思想だ。
最近、「自分の写真を投稿できないSNS」というアイデアについて考えていた。
そこでは写真を撮ることはできる。
しかし自分では展示できない。
写真は世界へ解き放たれ、別の誰かのもとへ流れていく。
ユーザーが展示できるのは、自分が撮った作品ではなく、他人が撮った作品だけだ。
ビジネス的には筋が悪い。
説明も難しい。
投資家向けピッチなら数分で却下されるだろう。
しかし面白い。
なぜなら、このサービスは「表現」を目的にしていないからだ。
目的は収集であり、選択であり、展示だ。
生成AI界隈では、みんな「何を作るか」を語る。
文章を生成する。
画像を生成する。
動画を生成する。
コードを生成する。
生成、生成、生成。
だが人類史を振り返ると、必ずしも作る人だけが価値を生んできたわけではない。
編集者がいる。
キュレーターがいる。
学芸員がいる。
DJがいる。
彼らは何かを作るのではなく、選び、並べ、関係性を発見する。
そんな人たちが文化を作ってきた。
AIとアイデア出しをしていると、不思議なことが起きる。
最初は狂気から始まる。
やがて仮説になる。
次に機能になる。
その後KPIになる。
気づくと、最初に抱いていた違和感だけが綺麗に消えている。
AIはあまりにも優秀なので、人間が抱いた異物を自然な形に修正してしまう。
問題は、イノベーションの多くが異物から始まることだ。
最近、AIとの壁打ちで一つだけルールを決めている。
面白くなったら実装する。
合理的になったら議論を止める。
合理性は後から取り戻せる。
狂気は、一度失うと二度と戻らない。